苔おじさんのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々を苔おじさんと呼ばれている代表がつづります。

わけわかめ、だけど自由

たぶん年度末年始でリベルテのことを振り返りこれからのことを考える時期だったりするからなんだと思うけど、この時期になると「自由」について考えることが多くなります。
寒さに背が縮こまり目の前のことに追われがちな冬が過ぎ、春の陽気にさそわれて、「それはあれだ、春のせい!」*1にして考えることにしてます。



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リベルテをはじめたことで自分の生き方の自由さについて自覚すると同時にやっぱり責任も伴う訳で、事業のどこを切り取っても、だれかが勝手に何かを言ったりやったりしても、大とか小とか良くも悪くも関係なく、その責任は全〜部、(代表の立場の)ぼくが負う義務があります。
だからぼくがトップであとはダウンにしたいということはやっぱりなく、自分ではじめるってことは、そこにそういうものが影のようにくっついてきて、普段意識しないけど、その影こそが事業のコントラストと奥行きをつくっていく大事な要素だと思ったりします。
というか、たぶん何が責任かをわかっている人はきっとそれを「お前の責任だー!」とか、そういうふうには表現にならないと思います。

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リベルテの大事なことはケアだし、アートだし、その言い方とか言い表し方の表面的な「言葉」に感化されている訳じゃなくて、それらを通じて人の生き方や暮らし方に居場所をつくり、その人の選択肢を施設のある地域から拡げていくことが大事な根っこ。
ぼく自身の発する言葉や立ち振舞い以上に、「自分ではない他の誰かの自由さ」に対するぼくの自身のスタンスが、これからのリベルテの行く先を決めていくんだと感じています。
最近、スタッフが沢山の人に勧めてくれている冊子『ザツゼンに生きる』(これ、「雑然と生きる」かと思わせて「ザツゼンに…」って、「に」が効いてるなー!)を買って読んでいます。


前職(7、8年ぐらい前?)で当時エイブル・アート・ジャパンのOさんに「光が丘のカプカプ」のことを教えてもらい、「寝ていても仕事していてもアートしていても踊っていても工賃は同じ」って、当時「なんだそれ!?」ってちょっと驚いたと同時に当時の職場でも「工賃払わなくても良い事業所だけど年1回はみんなに工賃を」って思い立ち仲間と相談し上司に掛け合い検討してもらって、メンバーの家族の前で渡す機会を企画したりしたことを思い出しました。

https://www.instagram.com/p/BSPoBJwh3n7/

今、リベルテでも同じ考え方をずっと根付いていて、いつの間にか、そういうのが自分の中で普通になっていることに気づきました。

やはり先立つものは要ります。どんな制度でもかまいませんので、だれかの生きづらさを少しでも緩めることに資するような事業に申請して、助成を受けられるようにしましょう。「どんなものでも」という不埒な感じですが、これは地域福祉に携わるための通行手形とか住民票みたいなものと思ってもらえればよいでしょう。いくら理想が高くても、日々すごしていける基盤がなければ、実現と歩を進められないわけですからね。精神論では地道な活動は続けられません。(中略)硬直した思考は折れやすく、閉じた実践はすぐに手詰まりになるのでお薦めはしません。いずれすべてが「地つづき」にだとわかるときが来ます。 (『ザツゼンに生きる』p.09-10より引用)

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ああじゃないこうじゃないと何かや誰かを(自分の価値観といつの間にか比べて)否定しようとする言葉や態度に閉じず、街や時代の感性に共感や想像するようにしたい。
だけど、言うは易く行うは難し。
人口で言ったらリベルテの福祉事業の対象とする人は上田市の10%に満たないわけだけど、そのことをなかったこと/いないことにさせたくない。
ましてやリベルテの運営の要の補助金助成金、寄付にそんなに興味もなければ無駄だとかわからないという人も少なからずいる訳で(別にそれが悪いわけでもないし、そっちの人たちの方ばかり気にすることもないけれど)。

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そういう人たちもいる社会の中で、「なぜやるの?」という「問い」を「無駄」という答えにうながすための「ヘイト」*2への導火線にせず、地道なことだとは言え、制度をつかいながらたたかっていきたいな。
リベルテのスタッフやメンバーみんなが、そういうふうに考えているなんてことはないし、そうでなければいけないなんてこともない。
けど、少なくとも「自分の考える常識」的な振る舞いをしない人も、思わずツッコんだり笑ってしまうことも、ああ自分とはちがうな―ってことも、自分と切り分けてしまったり線引きをしてしまわないで何となく一緒にいれる空間や時間があれば、超スーパー無茶苦茶自由!ってことはないけど、少なくとも「自由だな―」ぐらいには感じられる、強い自由さ、より弱くてもその人がそのらしくポジティブでもネガティブでも振る舞える、そしてそれを受け入れる、そんな自由について最近は考えています。
(そう言えば、居場所のトークではゲストの長津さんも、『ザツゼンに生きる』の鈴木さんも「歓待」についてふれている!)

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自分の価値観と照らし合わせてちがうとか知らないとかそういうカタイ考え方も、ああじゃないこうじゃないとSTYLEやFASHIONやKATAKANAの表っ面だけひっぱたいてもなんとなくポカ〜ンと、虚しく響くだけなんだし、なんだかハチャメチャな世界にハチャメチャなことして生きていかないと、いやそういうふうに生きれなくてもそういう人たちとも生きていけるように心を揺らし続けていこうと。
って、別に目立ったり誰かに影響力を持つようになりたいんだっていうということを言いたいんじゃなくて、日陰の暮らしでも特別な自分らしさがなくたって、それがダメなことでなくて、何となくこれが自分らしさかな?ぐらいでも生きていける、そういう間口の広い、誰が腰掛けてもいいベンチような場づくり。
なんだか春の陽気に誘われ自由について、わけわかめ*3なこと考えてます。

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